フェミニスト考古学
読書会

Feminist Archaeology Reading Club in Japan

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サイボーグ宣言

報告者:荒井啓汰

November 21, 2021

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*このレジュメは、フェミニスト考古学読書会の発表メモとして作成したものです。

使用文献

本稿の目的

ハラウェイによるフェミニズム科学論を通して、自然科学・人文科学においてフェミニズムはどのような位置づけにあるのか(あるべきか)を考える

「サイボーグ宣言」に入る前に

パラダイム論と科学の相対主義(野家2015)

・トマス・クーン:1962年に『科学革命の構造』を刊行 =「パラダイム論」の提起

▸N. R. ハンソン:クーンの考え方に先行
・「観察の理論負荷性」:われわれは観察に際して一定の理論的背景を前提としている
→ex. 医師がX線写真からガンを読み取る=あらかじめ前提となる知識と理論がある
☆つまり、理論的背景からまったく独立な純粋無垢の事実なるものは存在しない
→とすれば、観察事実によって理論が正しいか否かを判定することはできない

▸クーンの「パラダイム転換」:あるパラダイムが別のパラダイムに交代する
・旧科学哲学…科学は直線的に進歩する ・パラダイム論…山あり谷ありの断続的転換
・パラダイム=「一定の期間、研究者の共同体にモデルとなる問題や解法を与える一般に認められた科学的業績」
・通常科学=科学者共同体が一定のパラダイムに従って営む、ルーティン・ワークとしての日常的な研究活動のこと
→この中では右肩上がりな進歩
・パラダイムの「危機」…パラダイムに対する信頼のゆらぎ
→新しいパラダイムの創出と、パラダイムの対立
→やがて新しいパラダイムに転換
・パラダイムの転換の原因:社会的背景や歴史的要因と関わる、世界観の転換のようなもの

▸科学知識の社会学…クーン以後。K.マンハイムの知識社会学による。
・知識はそれが生み出される社会的基盤や時代状況によって拘束をうける
・「ストロング・プログラム」…上記の社会的拘束は自然科学を含めたすべての知に対して働く
=数学や論理学の知識(定理・公理)についても社会的に構築されたものにすぎない

▸サイエンス・ウォーズ…科学知識の相対主義 vs 科学知識の普遍主義
・ソーカル事件…1996年に雑誌『ソーシャル・テクスト』にソーカルによって寄せられた論文が、真面目な論文を装った偽論文(パロディ)だった
→ソーカルは偽の論文であることを見破れなかった編集委員会を糾弾
→これを機に科学者と科学社会学者とのあいだに不信と断絶
・〈科学に対するラディカルな相対主義的主張をする者〉と〈科学を社会から独立した神聖な領域とみる者〉のあいだのすれ違い

フェミニズム科学論について

・科学の言説の多くは男性たちによってつくられてきた
→科学的知識の形成に際して、女性はほとんど介在していない
・問い「科学的言説のなかにジェンダーバイアスは存在するか?」
⇔「科学的言説は本当に”客観的”か?」 cf. クーンのパラダイム論
・霊長類の行動は本当に客観的に観察されているのだろうか。そこに人間社会が潜在的に仮託されてはいないか。〈ハラウェイのフェミニズム科学論〉

問題意識と問題設定

・フェミニズム科学論:本来的に政治的言説となるフェミニズムと、客観主義・普遍主義的な科学は、相容れない感じがする
☆ハラウェイのフェミニズム科学論は、「科学的客観性」と「フェミニズムの政治的言説(≒社会構成主義的言説)」をいかに両立させているのか?(あるいは両立していないのか)
・〈科学知識の相対主義 vs 科学知識の普遍主義〉の構図をいかに克服すべきか
→客観性・普遍性があるというドグマは怪しいし、行き過ぎた相対主義は危険すぎる…
→勉強会の軸でもあるフェミニズムとも関わるD. ハラウェイの論がいい

「猿と女とサイボーグ」のタイトル

・すべて「Man」に対するもの、周縁性を帯びるもの
・「猿的」なるものと「人間的」なるものの境界はどこか。有機体的機械とわれわれの境界は引けるのか。男性中心的な社会のなかで周縁性を帯びる女性。

ハラウェイのサイボーグ論

集積回路の女性は共通言語というアイロニックな夢を見るか

・サイボーグ=「機械と生体の複合体」
・「我々は皆、キメラ、すなわち、機械と生体のハイブリッドという理論化され製造された産物であり、要するに、我々はサイボーグである」(p.288)
・西欧の科学とポリティクス…人種主義、男性支配の資本主義、進歩の伝統etc…
→この中で生体と機械の関係は、境界をめぐる戦いだった
→ここで論じるのは、境界を曖昧にすること/境界を(再)構築すること
※アイロニックな議論:政治的ユーモア、皮肉、まじめな遊戯
・サイボーグはポストジェンダーの生き物
・曖昧になった3つの境界
①人間と動物の境界:人間と人間以外の動物を明確に区分するものはない
②人間(-動物)と機械の境界:
③物理的なるものと物理的ならざるもの
・一般的に、精神/身体、動物/機械、理想主義/唯物主義の二元論が想定されている

断片化するアイデンティティ

・「女性(Female)」というカテゴリー=性科学など様々な社会実践の中で構築されてきた、錯綜したカテゴリー
=「女性「である」という状態が存在するわけではない」(p.297)
・ジェンダー、人種、階級、といった意識…家父長制、植民地主義、資本主義といった歴史上の経験によって、我々が手にすることを余儀なくされた結果である
・「有色の女性」のアイデンティティ、抵抗意識  有色の女性⇔白人男性
・しかし、「有色の女性」というアイデンティティにおいても
→手にしているのは茫漠たる差異の海ばかり
→「彼女」という単数の存在として位置することを認められていたわけではない
・ケイティ・キング:アイデンティティを画定する行為の限界
→フェミニズムのあり方が分類されている。それによってカテゴリーからの逸脱した経験は周辺化される。
・どのようなポリティクスであれば、個別かつ集合的な自己を、部分的で相矛盾し、永久に閉じることのない構築物として抱えこむことができるのか?
・「人種」や「階級」と同じように、「女性」もまた歴史的に設定されたもの

支配の情報工学

・従来的な枠組みや二項対立自体を脱構築するような概念を提示 pp.310-311
=科学とテクノロジーの結びつきの中、世界規模の社会関係の配置換え
・アリストテレス以来の西欧的な二元論…不備を有している
→多様な主体であるはずの個々人を「女性」(⇔「男性」)と括ることで問題が生じている
・「サイボーグとは、ある種の自己―解体・再組み立てされ、集合的・個的であるようなポスト近代の自己―である」(p.314)
・このためにはコミュニケーション・テクノロジーとバイオテクノロジーが必要
→このような分野では、機械/生体の差異はぼやけ、心・からだ・道具が密接に結びついている

「家庭」の外の「ホームワーク経済」

・科学やテクノロジーに対し、労働として関わる
→シリコンバレーで働くようになった女性たちのことが取り上げられている
・これによって、文化、労働、生殖/再生産が再編されること
・新しいテクノロジー→労働のあり方の変容→様々な社会関係の再編成

集積回路の女性

・イメージとしては、二項対立よりネットワークを。
○分散。ネットワークの中に女性が位置するのではなく、サイボーグとしてのアイデンティティに必要な性質が存在しているだけ。
×アイデンティティの同一化
・動物や機械と融合する過程を介して、我々はいかにして「人間(Man)ではないかたちで存在しうるか」について学ぶ (p.331)
→科学やテクノロジーの社会関係によって必然化された視点
→ここにフェミニズムの立場にたった科学が存在する可能性がある

サイボーグー政治的アイデンティティという神話

・サイボーグ:全体に関わる理論を作ろうという衝動はない
→境界を構築し、脱構築してきた経験がある
・サイボーグが関係するのは生殖ではなく再生
・大事な2つの議論
①普遍的で全体化作用をもつような理論を生成することは大きな間違い
②日常で遭遇するさまざまな境界を構築しなおす
・サイボーグの想像力:二項対立という迷路から抜け出す道筋
・「女神ではなくサイボーグとなりたい」(p.348)

所感

1. サイボーグとSF

・サイボーグのイメージ=巻頭の図版1
・「サイボーグ宣言」では随所にSFのモチーフが登場
Cf.ディック『アンドロイドは電気羊の夢を見るか』など。高度にプログラムされた機械と人間は見分けがつかない、そもそもそこに線引きはできるのか?
・そのようなSF的発想が、我々の固定化されたアイデンティティを解体・再構築することに役立つ
・アニメ「攻殻機動隊」:主人公は女性、脳も含めて身体のすべてが機械である
→自己を自己として規定する部分はいったいどこにあるのか…と問う

2. サイボーグとフェミニズム

・その人が何者であるのかということと、身体的特徴はまったくの無関係
→なのに「生物学的に」という点とよく結び付けられてしまう
・本来少数で多様な存在のためのフェミニズムであるのに、女性(/男性)という枠組みで括ろうとするから、またそこから「はみ出た」存在を生み出してしまう
=だから規範的な枠組み(アイデンティティ、「女神」)よりも、断片的で流動的な構成要素の集合体(ネットワーク、「サイボーグ」)として生きればいい
・だが、我々は本当にそれを望んでいるのか?確かにサイボーグであれば どこかで規範的な「女性」「男性」を望んでいる場合があるのではないか

3. 全体的には…

・難解。
・二項対立を超えること。ただし、「ではどうすればいいか?」は語られていない
・ただし、「サイボーグ宣言」とある通り、これは「分析」というよりも「マニュフェスト」なので、「ではどうすればいいか?」については第9章の「状況に置かれた知」で論じられる